本部
桜の木がふわりと揺れている。
見ているだけで暖かさを感じさせる柔らかい風は、冬を乗り越え、次の季節に移ったことを告げていた。
桃色の花びらが陽の光の中に舞い、それに応じるようにヒバリが楽しそうに飛んでいる。
だが、春の訪れを祝う様を施設の窓から眺める私は、それらを楽しむ気にはなれなかった。
明確なこれという理由はない。
季節の変わり目による体調の不安定さ、仕事の些細なミスの積み重ね、人とのすれ違いなど、複数の原因が絡み合って体に重くのしかかっている。
花の入っていない、空の花瓶を拭きながら思う。
私は、本当に人の役に立てる仕事をしているのだろうか。
ネガティブな思考は一度始まると終わりがない。
渦の流れを無理やり止めるように、花瓶をがむしゃらに磨く。
お昼に利用者様のお孫さんがお見舞いに来るそうだ。
背筋に無理やり力を入れ、掃除に取り掛かる準備を始めた。
お昼休憩を取った後、利用者様の部屋に向かうと、高校生らしき男の人が出てくるのが見えた。
会釈を返して部屋に入る。
「あら、こんにちは。」
利用者様がにこやかに話しかけてくださった。
手には、紫の十字を目いっぱい敷きつめたような花束を抱えている。
「こんにちは。素敵なお花ですね。」
「ええ。孫がお見舞いの時に持ってきてくれたの。見ないうちに孫も大きくなってきてしまってねえ。」
利用者様はお孫さんの話をしてくれた。
ムラサキハナナという名前の花であり、孫が選んで買ってきてくれたこと。
学校の成績がすごくよく、最近受験に合格したこと。進学先の学校でも勉学に励もうとしていることを話してくれた。
「勉強の成績も良くて、お見舞いにも素敵な花を選んで来ていて。素敵なお孫さんですね。」
「ええ、自慢の孫だわ。ねえ、このお花の花言葉、知っている?」
「知らないです。なんですか?」
「聡明、優秀、あふれる知恵、癒し。昔から、人に勇気や愛情を伝えるために用いられて
きたそうよ。」
顔が引きつりそうになって、必死で抑える。
今の私と真逆の存在を突き付けられて、目の前で起きていることが遠い世界で起きていることのように感じられた。
「花に合った、素敵な花言葉ですね。お孫さんのことを感じられそうで、良い花を選んで
くれたと思います。」
「そうね…。でもね、孫には常に清く賢くあってほしい、というわけではないの。」
「どういうことですか?」
「確かに、賢くて凛とした物は美しく見えるわよ。
でもね、常にそうでなくちゃいけない、というわけではないと思うの。
目標に向かっていく姿や、迷いながら自分の道を進んでいる姿にも、また違った美しさがある。」
一呼吸おいて、答える。
「そうですね、そう”でも”、いいですよね。」
「ええ。孫も、これから大きな壁にぶつかることもあると思うの。
ただ、そこで躓きながらも、自分の道を信じて進みなおせる力強い子になってほしいわね。」
利用者様は少し困ったように笑いながら言う。
「おせっかいだし、頑張っていることに水を差しているようで孫には直接言えないのだけれどね。」
「いえ。お孫さんを大事に思う気持ち、ちゃんと伝わっていると思いますよ。」
「そうだといいわね。ねえ、その花瓶、使ってもいいかしら?このお花を飾りたいの。」
「もちろんです。お水、汲んできますね。」
花瓶を抱えて部屋を出る。窓から入った光が花瓶に反射して眩しい。
が、そのことが誇らしかった。
外を見ると、開きかけのつぼみが優しく揺れており、心なしか応援されているように感じられた。
たくさんの変化が訪れる春。
上手くやろうと張り切ったものの、空回ってしまうこともあるかもしれない。
だけど、失敗から立ち直り、新しい一歩を踏み出そうとすることもまた違う形の賢さなのだと教わった。
あの花のように凛とした姿でいられなくとも、自分なりに頑張っていこうと思う。
4月のお花:ムラサキハナナ
ムラサキハナナの花言葉は「聡明」「優秀」「癒し」「変わらぬ愛」です。
オオアラセイトウ、諸葛菜とも呼ばれており、諸葛孔明が陣を張った際に、この花を撒いた伝説からこのように呼ばれているそうです。
美しい十字の花弁を持ちますが、日当たりの悪い場所でも力強く咲き、道端でもよく見かけられる花です。
新生活が始まるこの時期、気を引き締めて、この花のように強く、賢くありたいものです。