本部
「結局は達成感かな、それしかないよ」
「やってきたことは必ず誰かが見ている。だって私がそうだったから」
正しい言葉で異論はない。でも、僕はそれを飲み込めるほど強いひとではなかった。辛いことや不満に耐えて、努力すればきっと報われる。
その代わり、結果が出るまでは頑張らなければならないように思えてしまう。
報われたのはただの結果論で、他人任せの偶然をひたすら待つなんてことは、弱い自分には到底できそうにない。
自分の努力は己で成功させる。その思いで始めたのが、僕による僕のための「ご機嫌取り生活」だ。
スーパーで安く野菜が買えたのは、店舗の安売りを狙ったわけじゃなくて、その日にお得な食材を選んでご飯が作れたから。いつも朝早く起きられるのは、寝る前の準備を整えて、スマホを見ないようにしていたから。利用者様から感謝をいただけるのは、みなさんの好みやクセを都度メモしているから。
物事における嬉しい結果の理由を、他者からの要因じゃなくて自らが戦略立てをしたためだと思い込んで過ごす。
ただ、自分を守るために考えたことが、時に自分の首を絞めることとなった。
自分が頑張ったからもらえた感謝の言葉。利用者様はその時いつも、自分の名前を呼んでくれる。
名前を覚えていただくことがやりがいの一つであり、そのための戦略を立てている。
皆さんと会話をする時は必ず名を名乗ってからお話するし、「僕の名前覚えてくれました?」なんてわざわざ聞いたりもする。
他の人から見れば、どうでもいいことかもしれないけれど、名前を呼ばれるだけで、その人と繋がれたような達成感を感じるのだ。
達成感を得るための行動が、全く通用しなかったことがある。
何度名前を名乗っても、一向に覚えてもらえない。
その方は優しくて、毎朝必ず僕に向かって挨拶をしてくださるが、肝心の名前だけは、どうしても思い出せなかった。
それから意固地になってレクリエーションでも入浴介助でも、その方のお手伝いを積極的にするようになった。
それでも達成感を得られる瞬間には立ち会えなかった。
「毎日よくしてくれるけど、名前だけは忘れちゃうの。本当にごめんね」
頑固な僕に気を遣って謝られることも多い。
ここまでムキになって名前を覚えてもらいたいのは、自分の頑張りを独り占めする癖が、いつしか自分しかいないという孤独にすり替わってしまったからだと思う。利用者様はとてもよくしてくださるのに、あの「ご機嫌取り生活」や達成感のための戦略によって、広い海にぽつんと取り残されたような思いだった。
「なかなか食わないよな」
突然連絡があって、学生時代からの友人と食事へ行った。
彼も近しい業界で働いており、趣味の話から直近の与太話、それからジョッキが何杯か空くと大体仕事の話へと移り変わる。なんてことない居酒屋にめずらしく蟹料理があって、僕の悩みを横に流しながら黙々と食べていた。
「愚痴はいいからさ、とりあえず食えば?蟹だよ?」
テンポを変えずに食べ進める彼に諭されて、切り分けられた脚を手に取る。それを見つめながら、
「結局名前覚えてもらえないのかなー」
と独り言のように口にすると、
「黙って食え、美味いから」
とだけ言って、彼は食べ終わるまで一言も話さなかった。
手に持った脚から身を取り出すのが難しい。
たった1本を食べ終わるまでに、彼は残りのものを全て平らげた。
「お前が遅いから全部食ったわ」
と謝りもせずに満足げな表情の彼は、殻入れに溜まった脚を横目に、蟹文化について話始めた。
「蟹ってさー元々捨てられてたらしい。というか、海沿いの町でしか食べなかったんだって。
水揚げしてすぐ鮮度が落ちるから、漁師が食べたい分だけ食べて、あとは全部捨てちゃう。
でもな、偉い人というか、蟹をみんなに食べてもらいたい!って発起した人が、水揚げしてすぐの蟹を氷漬けにして、内陸まで汽車で運んで蟹料理を出したらしい。それでみんな美味い美味いってなって、全国に広まったんだってさ。すごくない?
その人は多分めちゃくちゃ努力したんだろうな。
でも誰もその人の努力なんて知らずに、例え知っていたとしても、結局あー美味いなーって言って黙って食べてたと思うんだよ」
そう言って、関係のない話をし始めた。
帰り際、「ほどほどにな〜」とだけ残して、その場を去った。
いままで僕が「戦略」だと信じて積み上げてきたものは間違ってない。
でも、それだけが正解じゃない。名前を覚えてもらえなくても、相手は喜んで感謝を伝えてくれる。
小さいプライドなんか捨てて、目の前の嬉しいできごとを拾う。それもまたひとつの正解なのだ。
「〇〇くんおはよう!いつもありがとうね〜」
翌朝、あの利用者様が僕の目を見て挨拶した。僕とは全然違う苗字を言っていたけど、
「おはようございます!今日元気ですね」
と答えた。
彼女は満足そうに微笑んでいて、やっと名前を覚えられた!と自信に満ちた表情だった。
名前を覚えてもらえないことに悩み、そこにこだわり続けた自分がどこか遠くに感じられた。
名前を呼ばれることが目標だったのに、目の前の利用者様が満足している様子を見ていたら、そんなことはどうでもよくなってきた。
以前なら「違います」と訂正していたかもしれない。けれど、今では「それでいいんだ」と思えるようになった。
「蟹は黙って食べるのが1番美味いもんな〜」
それくらいが十分だ。