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【添う恋う長屋】我儘をつらぬく蝶の羽ばたきひとつ

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お届け日時を午前中に指定した「置き配」を、日が暮れた頃に回収しただけで貴重な休日が終わってしまった。溜めていた洗濯物を洗って、その間に流行りのドラマを観て、日が出てるうちに部屋の掃除を終わらせようと思っていたのに、休日のTo doをひとつもこなせなかった。

私生活を充実させることが極端に苦手だ。予定を組んでもほとんど達成できない。仕事となれば責任を果たすが、業務をやり抜くことに必死で、帰宅すると化粧道具やら寝巻きやらが家中に散らばっている。仕事の達成感はあるしやりがいもある。その代わり、おざなりにした部屋を見ては少し悲しくなる。

そんな生活でも利用者様の言葉は励みになる。「体調大丈夫か?」とか、なかなか入浴をしてくれない方を褒め続け、笑いながら「負けたわ」とお風呂に入ってくれたりとか、私のことを気遣い、思いをちゃんと汲み取ってくれる方がたくさんいるおかげで、言葉にできない気持ちが体の底から芽生える。「この仕事は一度入ると抜けられないよ」と言った同業種の家族の言葉が身に染みてわかる。職場の上司からも「一生懸命なのは知っているし、利用者様もそれに気づいているから応援するんだよ」と声をかけてくれた。

目の前のことに必死。これが私の強みでありそしてずっと拭えない悩みだ。一つのこと、いわば仕事という「点」に集中するせいで、自身の生活や生き方といった「線」が捉えきれない。必死の皺寄せを具現化した部屋を見られたくなくて、いつも宅配便を玄関受け取りから置き配に変更する。本当は宅配業者さんに「ありがとう」と言いたいのに、私のせいで感謝の連鎖を止めている。取り柄である「一生懸命」をサボって私生活を充実させるのも違う。自分の正義を持ったまま仕事も生活も全部良くしたいという我儘を、どうにかして貫きたいと思っても、その答えが見つからなかった。

男性の利用者様に、私とは正反対の人がいる。彼の居室は常に美しく、起床してすぐのベッドでさえも、ホテルの客室みたいに綺麗に整えられている。ちゃんと生活感もあって、まさに丁寧な暮らしを体現しており、私にはない「余裕」をいつも漂わせている。顔を合わせるたびに仕事を労い、そして「少し休んでいけよ」と世間話を始めるのだ。

放ったらかしの家のことを忘れるために、今日も職場でテキパキと動く。業務を手の甲にメモして、タスクが終わるたびに「次は・・・」と目を向けながら、廊下を早歩きで通る。

その時、あの丁寧な彼が飾られた絵の前に座り込んでいるのが見えた。通りすがりに挨拶だけ、と声をかけると、「ちょっと」と引き止められた。

「いつも急いでるなあ。」

「忙しなくてごめんなさい!今日もバタバタです。」

「そうか、じゃあちょっと立ち止まりな。」

「すみません今は・・・」

「いいから。話に付き合ってくれよ。」

やらねばならない業務が溜まっているが、今日はまだ一息もついていないことに気がつき、少しならと思って、彼が見る絵の前で休むことにした。

「この絵はな、俺の生き方を表してくれているんだよ。」

「この蝶が、ですか?」

「そう。蝶の羽ばたきが竜巻を起こすってな。都市伝説みたいなもんだけど、全ての物事は積み重ねだと俺は思ってるんだ。いつも君は、俺らのために一生懸命動いてくれてる。ありがとうな。ただ、いつも忙しそうってのは、それはそれで違うな。休みの日、ずっと寝てるだろ」

私生活のことは言ったことがないのに、いとも簡単に当てられて、思わず声がでた。

「えっ!なんで知ってるんですか?言ったことないですよね?」

「長く生きてればわかるんだよ。仕事が楽しそうだから言わなかったけれど、君は仕事のための仕事をしてる。俺も若い頃そうだった。自分のために仕事をしてないんだよ。だから生活が荒れる。仕事では掃除できるのに、家では全然できないよな。」

「本当にそうなんです・・・。業務に必死で、家に帰ると何もできない。お休みを取っても、何もしないまま1日が終わってしまうんです。」

「仕事も生活も、全部準備なんだ、準備。」

そうして、彼は仕事で学んだことを教えてくれた。

「若い頃、大工をやっててな。道具は大切にしろ、と毎日言われてた。そんなことは当たり前だよな。わかってることをなんで言うんだと思って、あまり聞いてなかった。ある時、道具を1つ忘れたんだ。何十もある道具のうち、ほとんど使わないたった1つをだ。そして、そのことがバレてしまった。ものすごく怒られてな。現場に入れてもらえなくなったんだ。ほとんど使わない道具を忘れただけでなんだよと不貞腐れて、家に帰って探した。全然見つからなくて、狭くて散らかった部屋の、玄関棚の下に落っこちてたのを見て、その時やっと道具を大切にする意味に気づいたんだよ。」

「道具を大切にするってのは、普段から準備をしておくことなんだ。道具を手入れして、自分の手に馴染むようにすること、その道具たちをいつでも取り出せるように、あるべき場所に保管しておくこと、その場所を確保するために、部屋を整えておくこと。全部がつながってる。ほんの一手間を惜しまない。小さなことの積み重ねはな、自分の気持ちにも影響するんだ。」

「部屋が綺麗だと、朝の支度は楽になる。作業服が整えられていると、着た時に嬉しくなる。気分が良いまま仕事をする。現場で使う道具は手入れして手に馴染むから、作業がどんどん進む。作業が進むから、仕事がもっと面白くなる。そこでやっと自分のために働いているんだなって実感した。『バタフライエフェクト』ってやつだな。『桶屋が儲かる』の方が俺は馴染みがあるけど、この絵は、それを表してるんじゃないか、俺が気づいた生き方なんじゃないかって思うんだ。」

「休みの日に何もできなくてもいい。でも、面倒でも1個だけやってみな。皿1枚を洗うだけでいい。それが自分のための仕事と生活を作る1回目の羽ばたきになる。」

この話が私の長年の悩みを解決する方法だった。自分が暮らしやすくするために、小さな準備を積み重ねる。この絵の蝶の羽ばたきを実践すれば、私は私の我儘を貫き通せるのかもしれない。

仕事を終え、家に帰る。ベッドに倒れそうになるのをこらえ、台所に向かった。

宅配の方へ感謝を言うために私はお皿を洗い始めた。


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