本部
──こんにちは。
挨拶から会話が続かない。学生時代、バイト先の店長から言われた「挨拶だけしておけばいいんだからさ」の言葉を鵜呑みにしたのが悪かったのか、仕事中は「おはようございます」「こんにちは」「お疲れ様です」しか言えない。業務連絡だったらスラスラと話せるし、急な対応の指示出しもできる。なのに、どうやっても挨拶のあとの日常会話がひとつも口から吐き出してはくれないのだ。
小さい頃はよく喋る子だと言われていた。母の買い物について行くと、店内にいる全く知らないおばちゃんに話しかけ、試食コーナーを見つけると吸い込まれるように猛ダッシュ。「これ美味しいの?食べたい」とバイトのお姉ちゃんにせまっていたらしい。
それから10年くらい経って、進学のために上京した。ビカビカの看板に囲まれた繁華街に降り立ち、先輩たちに連れられて入った新歓コンパ会場。地方出身者の方が多いはずなのに、さっきの看板みたいにみな、ビカビカしていた。そこで1番ギラギラしていた男の先輩に、「お前関西出身なのに面白いことひとつも言ってないの、なんでやねーん!」と言われ、周りも笑い転げていたのを見て、僕はもう喋るのやめようと思った。誰も覚えていないとっても小さな一言を、何年も引きずっている。
でも、学生の間に友達もできたし恋人もできた。就職だってなんとかできた。あんまり言葉を操れない僕でも、普通に暮らすことはできる。ただ、「お前が考えていることが全然つかめない」と親しい人から順に言われて、僕のもとを去っていった。
気が効くことがひとつも言えないから、面白いことなんて言えるはずがないから、僕は誰かに話しかける資格がない。とりあえず挨拶をしてみても、普段から声を出していないから、声量の調整が上手くできない。家に帰って、あー今日もやってしまったと後悔して、それを紛らわすようにYouTubeでONE PIECEの考察動画を見る。毎週欠かさず漫画を読んで、同じように僕もあーだこーだ考察をするときだけは、唯一僕がお喋りとして世に出られるひとときだ。これならと思って、SNSに自分の考察を投稿して、周りの反応を伺ってみたけれど、「いいね」がゼロの投稿が10個並んだのでやめた。
僕の職場、その施設には僕の憧れの人がいる。その方はいつも笑い散らかしていて、キラキラしていた。ビカビカでもギラギラでもなく、キラキラを体現したようなご高齢の方だった。ご家族も毎週会いに来られていて、その方の好きな食べ物や植物を土産に、会話に花を咲かせていた。またある日、作業のためにたくさんの利用者さまが集まる談話室を通りがかると、彼女は歌番組を見ていた。そして、
どうして〜私を〜愛したのですか〜
と嬉々として歌い始め、番組を尻目にみなの注目を集めていた。作業を終え、また談話室を通る。すると「あのときスタジオに竹が生えてたのがおもしろくって。あっはっは!はー、いまでも面白いわぁ」と昭和の名音楽番組についての話で盛り上がっていた。そして、その番組では恒例の、イントロで語られる前口上のモノマネをし始めて、午前中の室内を夜のヒットスタジオへと変えている姿に、僕もあんなことできたらとすっかり憧れてしまった。
見かけるたびに誰かと楽しそうに話しているし、数十年も前のテレビ番組の前口上を、つい昨日見たことのように話す。その異常な記憶力の高さが、彼女のコミュ力の高さを裏付け、そして僕には到底叶わないことだと思っていた。
彼女の介助を僕が担当するようになった。今までも多くの方のお手伝いをしてきたから、同じように頑張ろうとは思ったけれど、やっぱり憧れの人と過ごすのは少しとまどった。僕の緊張はいざ知らず、彼女は話し続ける。「今日もいい天気だね〜」とか、施設に飾ってある絵を見ては、毎回何か反応する。少しでも気の利いたことを、と思って僕が言葉を考えている間に別の話題にすり替わる。またいつもの繰り返しだ。何を考えているのかわからないと言われてしまう。その焦りが、余計に僕の口を塞ぐ。
竹の絵の前を横切ったときに、突然彼女が「竹の秋〜」とひとりごちた。僕は竹の秋?竹の季節って春じゃないの?とふと思って、思わず口にした。
「竹って春じゃないですか?」
「春の竹のことを、竹の秋っていうのよ。たけのこの旬は春でしょう?それが育つ代わりに、親の竹は、葉っぱが黄色くなるの。だから、春の季節は竹の秋。知ってた?」
「全然知らなかったです。すみません。」
「いやいや、いいのよ!返事してくれただけで嬉しいんだから。いままでは、『はい』とか『そうですね』しか言わなかったじゃない。この子は話聞いてくれないのかなって心配してたんだから。」
図星を突かれる。
「ほんとごめんなさい、気の利いたこと言おうとして、いつも返せないんです。上手いこと話すのが苦手でして。」
「えっそうなの?いつも挨拶はちゃんとしてくれるから、悪い子ではないとは思ってたけどさ、話なんか適当にしちゃえばだったらいいのよ。思ったこと言えばいいの。」
「でも、お話されるのがすごく上手ですよね、コミュニケーション力がすごいというか、あと、記憶力がすごい。」
「そんなの、過去のことをずっと思い出してるだけよ。話すことがあんまりないから、つい昔の話をしちゃうの。それで覚えているだけ。」
「僕にはそんなことできないです。人と上手く話せなくて悩んでますし。」
そう告げると、彼女は振り向いて語り出した。
「お塩ってあるじゃない。」
「えっ塩ですか?」
「そう。調味料のお塩。知ってると思うけど、お塩ってほとんどの料理に使うものなのよ。お肉を焼くときに少し塩揉みしてから焼くし、塩加減がスープの味の決め手にもなる。お米だって、お塩だけ振りかけておいたら美味しいでしょう。台所に立つたびに使うから、お塩をきらしてしまったときは、あー、私は生活してるなあって感じてたの。」
「私はうっかり者だから、いつもきらしてから、ないない!って慌てるんだけどね。そのくらいお塩って気にされない存在というか。でね、私は、会話もそうなんじゃないかなって思うのよ。」
「気の利いた面白いこと言えたらそれはすごいけど、そればっかり考えたら疲れちゃうじゃない?ご飯もさ、毎日ステーキみたいなご馳走が出てきたら、それはそれで嫌でしょう?自分のことを全部伝えなくても、相手のことがなんにもわからなくっても、お塩みたいに、毎日するような話でいいからさ、思ったこと言えばいいのよ。それだけで、人との関係は味付けされるものよ。」
「確かにそうですね。確かに。んー、そうだな、話せばいいんですもんね。・・・竹塩。」
救いでしかない話をしてくださってるのに、こんな時に僕はさっき見た竹の絵と、お塩の話がくっついて、つい口から漏れてしまった。
「竹塩?なにそれ。」
「あーすみません・・・。竹塩ってものがあるんですよ。塩を竹の筒に入れて、松の薪で火を焚いて、それを何度も繰り返してできる塩です。多分、韓国のものだったかな・・・天日塩を竹で加工すると、突然高級品になるらしくて。僕もたまたまインターネットで見かけたのであんまりよくわからないんですけど・・・。 」
「へえー!長いこと生きてきたけど、そんなこと知らなかった。もし買うことがあったら、私にも味見させてよ!家族に頼んでみようかしら。」
「ほら、会話続くじゃないの!すごく面白いこと聞いたわ。塩と竹で話が進むなんて、ちょうどいい味付け知ってるじゃない。なんでもいいのよ、思ったこと言えば。」
「ありがとうございます。」
なんだか話が楽しくなってきて、ここで初めて「いいね」をもらえるかもしれないと、期待を胸に膨らませた。
「あの、僕、小さい頃から、すっごく好きな漫画があるんですけど、言ってもいいですか?」
「今日はよく喋る子ねえ。私は漫画ほとんど読んだことがないから、わからないと思うけど。」
「いやいや、聞いてもらえるだけでいいんです。どんな漫画かっていうと」
ありったけの夢を集めて、探し物を探しに行く話なんです。