コラム詳細

【添う恋う長屋】Moon River and me 

本部

3番出口から入って、時刻は18時15分。

後ろから2両目の車両の入り口で待ち、約3分。車両に乗ってすぐに左のスペースに寄り、18時19分発の上り電車に身を任せる。
本来ならば帰宅ラッシュの18時台だけど、この電車だけは、なぜか乗客が少ない希少な車両。
電車嫌いの私が、ここ1年で導き出した最良の乗車時間だ。

帰りの電車のお供は必ず同じ曲。
映画「ティファニーで朝食を」の劇中歌で、とある洋楽アーティストのカバーした楽曲を聴くことにしている。
8分と17秒間のこの曲をリピートし、2回目が終わったところで、最寄り駅に到着。
ホームから1番遠い出口をでて、家路に着く。これが私のルーティン。

生活費や交際費は月一できっちり分けるし、待ち合わせは10分前に到着するように支度する。ベッドには必ず右足から入って、左右に寝返り1回ずつ打って、かけ布団を均してから寝る。「朝はパン」というCMソングを聴く前から、8枚切りの食パンを食べ続けている。
生活の中に張り巡らされている、私ルール。


時折怖くなることがあれど、ペースをきっちり守って生活することが、毎日を豊かにする唯一の方法だった。
そんな私が、私たらしめる生活を自ら崩した、滅亡の日が訪れるまでは。

その日は少し仕事が遅くなった。その日1日のタスクが終わらなかった。
とはいえ、たかだが30分程度のズレである。それでも、私はきっちり仕事をこなせなかったことに憤りを感じていた。

「あれ、珍しいね。君が残業するなんて。」


「大変申し訳ありません、管理不足で・・・。」


「気にしないでよ。君はきっちり仕事をこなすから、こっちも助かってるし。たまには残ってもいいんだよ〜〜。」

毎日夜遅くまで残っているらしい上司が適当なことを言う。私がそれを知っているのは、
彼が大学生みたいに『昨日も遅くて寝てないわ〜』と毎朝毎朝へらへらと漏らしているからだ。

24時間、もっというと8時間の未来予想もできないなんて、と思う。
仕事の波はあるけれど、予測して準備すれば残業は起こらないのに。
それとも適切な仕事量を与え続けてくれるこの会社に感謝するべきか。

「本日のタスクは終わりましたので退勤します。お疲れ様でした。お先に失礼します。」


「あ〜い〜〜、え〜なんか珍しいし飲みにいこうよう〜〜」


「すみません、今日は予定がありますので。」

「そうか〜〜ざんねん〜〜。おつかれさま〜〜。」
嘘をついてしまった。本当は予定なんかない。

私、いつから予定がないんだ・・・?

いや、もちろん予定はある。タスクはきっちり立てているし、
家に帰って食事の支度をして、先日発売された好きな作家の小説を読むつもりだ。
週末は学生時代の友人とスタジオに入ってダンスをする。

ただ、それは全て事前に決められていたものだ。
私の未来は鞄の中に入ったA5サイズの手帳か、社用のPC、繰り返し設定されたアラームによって
すべて決められている。あとは、たまに鳴るSNSだろうか。
なんにせよ、すべて手のひらの中で完結してしまう。
片手で収まった人生とは反対に、もう片方の手は不安と孤独が山積みになっているのを気づかないでいた。
『予定はもう立っているのに予定がない』というトンチみたいな1節が気になっているうちに、駅に着いてしまった。

18時54分。あれ、いつもより歩く時間が伸びている。駅までの道中、いつもより人通りが多かったからだろうか。
なぜかはわからないけど、退社時間が30分遅いから、単純に30分遅れている訳ではなさそうだ。

帰宅ラッシュで人がごった返すホームで、私はうねうねといつもの場所へ進む。
掲示された時刻から5分遅れて電車がやってきた。帰宅予定の時間はとうにわからなくなった。人混みに流されて車両に乗る。
ちらっと見えたあのスペースはもちろん空いていない。

完璧なルーティンを崩された私は、鞄から一筋の糸を手繰り寄せるようにイヤホンを取り出し、
楽曲をかける。『moon』から始まる詞が聴こえて、すこし安心した。
それも束の間、トラブルで電車が停まる。イヤホンからは音が聴こえてこない。
1曲目が終わったあたりだろうか。たぶん、会社と家の、ちょうど間くらい。

「お客様に申し上げます、ただいま、車両内に体調不良のお客様がいらっしゃいましたので、
電車は次の駅で一旦停止いたします。お急ぎのお客様には大変ご迷惑を-」

どんよりとした満員の車内に一定の声色のアナウンスが響き渡る。乗客は少し顔を上げるが、
何事もなかったかのように、また各々の時間に戻る。この時間の電車では当たり前らしい。
トラブルが起こっても様相が変わらない空気。

予定調和が常であった私にとって、それは大きなストレスであった。今日は何かとリズムが崩れる。
何かが起こっているのに何も変わらないように見せる乗客にも苛立ちを覚えた。

イエスもノーもない空気に耐えられなくなった私は、心の中で「よし」と一言だけ放って、
次の駅で降りることにした。

のっぺらぼうにまみれた車内を縫って、ホームに降り立つ。わからないけど、とりあえず右へ。
案内掲示板も見ずに、私は改札を出て、最初に見えた出口へ向かった。


日中の予熱を残した黄昏時、目の前には大きな並木道。自転車で家路に着くであろう少年たちと、
スケートボードを鳴らす青年たちが、並木を横切る。駅名を見ずに降り立った私は、
大きな緑地公園へ足を踏み入れた。


1周するだけで、おそらく息が上がってしまうようなその公園は、数年前に訪れただけだ。
暮れかけた夕日の方向へ歩を進める。ほんの数分の逃避行。
未知なるものへの期待と恐れを半々に抱えて歩く。
外灯がちらっちらっと付き始めた頃、公園中央の大きな池にたどり着いた。

寝静まったような暗がりの池に、睡蓮がそこかしこに生えている。日が落ちてしまったからか、
花は咲いていないが、まん丸の葉に入ったひとすじの切れ込みは、毎日を崩された私の今日を表しているかのようだった。

「たどってきたのか〜。」


突然真後ろから声がかかる。


「えっ!?あっ、はい。すみません。」


怖くなって、つい謝罪の言葉を吐く。


「怖がらせてごめんね。大丈夫。」

背丈が同じくらいで、年齢は私より上であろうその人は、
暗くてよく見えないが、雰囲気はかなり上に見える。
ただ、声色は幼い子どものようであった。あの時、絶対に見たはずなのだけれど、姿形がよく思い出せない。
普段なら絶対に応対しないのに、予定調和をきらった今日がそうさせたのか、私はその場に居続けた。



「コーヒー飲む?」


「えっ?はあ・・・。はい。」


「はい。缶コーヒーだけど。」


「ありがとうございます。」



一口だけ飲む。生ぬるくなったコーヒーの味は、不味くてしかたがない。
でも、それすらも心地よかった。

「今から怖い話するね。」


「どういうことですか・・・?」


「さっき睡蓮見てたでしょう。睡蓮は、今の君にぴったりなんだ。
君は、すごく純粋で、人からは信頼され、自分で自分を信頼している。
だけど、その無垢さと己への信頼が、いつしか信仰になっているの。
完璧じゃないと、何もかもダメだって思っているでしょう?」


「・・・。思ってます。それは自分が豊かになるためであって・・・」


「いいから聞いて。人はねえ、常に変化するんだよ。予定なんてあってないようなもので、きっちり立てたって、未来はわかるはずないんだよ。
時間もいっしょ。そんなものは、後から作られたものなんだから、時刻通りが正解だなんて、あるはずがないんだよ。
君が今日ここに来たのは、そういうことなんだよ。
過去にも未来にも生きられないと本当はわかっている君が、予定調和を壊すために、この瞬間を生きるために、わざわざここまでやってきたんだ。」

さらに続ける。

「そのコーヒー、めちゃくちゃ不味いのに飲めちゃってるでしょ?世間はそんなに上手くできてないし、苦いし苦しいんだよ〜。
でも意外と飲めるし、ある時にさっと乗り越えられるの。そうして人は豊かになっていくんだよ。」

「私はきっと、誰かと関わって生きることを恐れていたかもしれないです。関わっているけど、
私の手のひらの中で動かそうとしていたかも。予定を立てて、人と関わることしかしていなかった。
作られた未来しか見ていなかったから、不安で孤独を感じていたのかもしれません。
それを感じれば感じるほど、私はまた手のひらを動かそうと予定を立てる。
そんなことじゃ、全く意味がないのに。」

「睡蓮はもう一つ花言葉があるんだよ。」

「滅亡ですか。」

「そう。今の君の人生は、これで終わり。一度無くしてみたらいいんだよ。
自分への信頼も、信仰も、その手のひらの中も。
そうしたらきっと、君の純粋さだけが残るはず。
苦しいかもしれないけれど、明日は明日の君に期待してみなよ。」

フッと目が覚めた。煌々と光る車内の電灯がまぶしい。さっきは流れていなかった楽曲が、耳の奥へと響いている。
それはたくさんの声が重なる、ネガティブなハーモニーであった。
翌朝、いつもと同じ時間に家を出て、滞りなく出社する。
昨日と同じ服装の上司がデスクでうたた寝をしているのを見て、声をかける。

「おはようございます。徹夜ですか?」


「おお、、おはよう〜、徹夜した〜〜今日もだよ〜」


「どうせダラダラしてただけですよね。でも、はい、コーヒーあげます。」


「え〜、めずらし〜ありがとう〜。どうしたの〜?」


「いや、なんとなく。そうだ、今日私の帰り遅かったら、一杯どうですか?」


「ん〜〜〜!??どうしたの?何かあった?え?辞めるの?」


「小規模な滅亡が起こっちゃっただけです。」

ジリジリと暑くなる太陽の下で、池の睡蓮は咲き誇っていた。

コラム一覧に戻る

ページトップへ